終電に乗りながら聴いたyou say I LOVE YOU

小さい頃、夜寝る前に目を瞑って自分が死んだあとのことをよく考えていた。

宇宙はいつまで宇宙としてあり続けるのか。人は死んだら生まれ変われると言うけれど、その転生する場所がずっとあるなんて保証はどこにもなくて、じゃあ宇宙のその先の、名前を持つ惑星の向こう側に、生まれ変われる無名の星(場所)があるのか。一体どんなふうになっているのか想像していた。

 

まぶたの裏には暗闇とチカチカと光るものが見えて、それは自分の死後、おそらく何億光年と続くであろう宇宙の未来と、宇宙のその先にある深い闇のようだった。

死んで生まれ変わる場所もなく、今ここで生きている自分も他人も動物も草木も惑星もすべてなくなったらどうしよう。

もし宇宙が消滅したら無になるけど、でもその無もきっと認識できないんだ。認識する人もモノも何もきっとない。

無を無として認識できないとき、わたしは一体どこにいっちゃうんだろうと思って声を殺して大泣きした。

眠っていた母親はそういうときによく起きる。

眠そうな母親に自分が死んだあと、宇宙がなくなったあとどうなっちゃうのか聞いた。

「お母さんも昔そういうことを想像して怖かったな」

この歳になってもわからないままだったけどね、とも言ってまた寝た。

結局宇宙のことは何もわからなかったけど、なぜか安心だった。

私の話を聞いてくれた上での共感があったことで、私がここにいると思ったからなのかもしれない。

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大人になった。

終電にゆられながらの帰り道。夜の東京は人がたくさんいてぐっすり眠っているおじさんや、酔っ払った大学生、忘年会帰りの社会人の群れ、この電車に乗るまでに一人ひとりいろんな経緯があり、この終電にたどり着いているんだと思った。

それを感じた途端、宇宙の向こう側の何も見えない暗闇と同じ感覚を得た。

あまりにも自分がちっぽけな存在で、群衆の一部でしかないことを痛感した。

皆それそれがそれぞれの理由を持って終電の電車の中で過ごしている。そこにいるだけでも膨大な量の理由があって、それを一つひとつ紐解くこともわかることもできない。

人はそこにいるのに、わからないことでその場にいる人が、私から見たら無になったしまう存在のように感じた。

 

誰かに“私”を見つけてほしいという気持ちがあったのかもしれない。見つけてほしいというか、存在していて、ちゃんと今生きてますよと、私だけじゃなくて他人の目からもそう写っていたら、それは自分が「生きている」ことになるんだ、と思った。

この言っている意味が誰かにわかるかわからないけれど。

対等に、「あなた」と「わたし」という認識された空間があれば、私はこの先の失う未来への恐怖が薄れるんだと思う。それが小さい頃お母さんが私に向けてくれた共感だったと思う。

 

終電で帰ると、都会の雑踏に飲み込まれそうな気持ちになる。有象無象でしかないと、自分で自分を無にしようとしてしまう。

だから二丁魁の「you say I LOVE YOU」を聴いて帰っている。

幼かったあの頃、泣き声もあげすに泣く自分に気がついて起き上がって声をかけてくれた母親が言ってくれたことと、

「you say I LOVE YOU」を歌う4人と歌詞聞いたときの感覚が、私には同じだった。

 

 

なんか今日の帰り道はそんな気持ちで音楽聴いてた。わかってもらえる感覚なのかわからないし、この文章を読んで理解してもらえるのかわからないし、もうぜんぶわからないけど、

でも今日はそういう日だった、だから記録。

 

おやすみなさい。